LOGIN教会の神聖騎士団に所属する僧兵と言えば大仰な名称も手伝って多少は聞こえがよく思えるが、実際のところ、彼らは食いつめた挙句に教会に安く雇われただけで、神などろくに信じてもいない傭兵崩れの荒くれ者の寄せ集めに他ならなかった。任務で派遣される先々で鬱屈した暴力性を解き放つものだから、評判は大層悪い。数百年の昔、聖騎士というものが実際にいたころの名残でこんな名前なのだとどこかで耳にしたことがあるが、大先輩の方々とは異なり、自分たちは当然のように騎士道精神なんてものは微塵も持ち合わせてなどいない。
教会から支給された質のそう悪くない白銀の装備一式に身を包んだディルは、早々にど田舎の村の巡回任務などという刺激に著しく欠ける仕事に飽き飽きしていた。彼は鬱屈した感情をどうでもいい会話で少しでも放出してしまいたくて、同様の装備で横を歩く仮初の同僚へと話しかけた。 「あー……マジでこんな僻地に派遣されるとかツイてねえって思わねえ? 零時の交代までひたすら巡回とか暇過ぎんだろ……適当に切り上げて、酒と女引っかけに行きてー」 「だよなあ……こんな退屈な仕事押し付けてくるとか神様とやらも見る目がねえっていうか目ェ腐ってんじゃねえの?」 傍らの経歴も素性も恐らくろくでもないであろう軽薄そうな男――ゼスはさらっと神への不敬発言を交えつつ頷いた。それに、と彼は言葉を続ける。 「ざっと見た感じこの村の女はどいつもこいつも芋っぽいったらねえわ、マジついてねーわ」 そう零した暫定的な相方へと、ディルは人相の悪さが十倍増しの顔でにんまりと笑ってみせた。 「でもなあ、手配書の似顔絵を見る限りじゃ『紅の魔女』とやらはなかなかの上玉らしいぜ?」 お、とゼスはうっすらと古い傷が白く残るぼさぼさの右眉を上げてみせた。 「なら、もしそいつを捕まえたら、手足の腱を切って動けなくしちまってから楽しませてもらうのも悪くねえな」 「違いねえ」 腰にはいた十字を象った意匠の支給品のテンプルソードをガチャガチャと鳴らしながら、村の広場で極めておざなりな巡回を続けていた僧兵の男二人はげらげらと下品な笑い声を立てる。 そのとき、二人から少し離れたところから、物音が聞こえた。広場の西にある何軒かの飲食店がぽつぽつと立ち並ぶ方角からだった。 「あん?」 ディルはそちらを振り返った。どうせ、今夜の巡回当番から運良く外れた同僚の荒くれ者がべろんべろんに酔ってどこかでぶっ倒れたかなにかした音だろうと楽観視していたが、彼は己の網膜に映った光景に絶句した。挙動不審な相棒を胡乱げに見やると、ゼスも同様に固まり、魚のように口をぱくぱくさせる。 「えっと……おい、これは……」 地面に無数の金属の欠片が突き刺さっていた。恐らく、先程の物音――金属同士がぶつかり合うような高い音の正体はこれだ。だが、誰がこれを、と彼らはぼんやりと考える。そういえば、『紅の魔女』のせいで印象が薄れがちだが、この地に潜伏しているという彼女と一緒に行動しているかもしれない少年も異端の能力を身に宿した立派なお尋ね者だったような気がする。 「えーと……確か、『災いの子』?」 ディルはなんとなくそれっぽい単語を記憶の隅から引っ張り出すと呟く。鋼の雨を降らすという十代半ばくらいの少年がそんなふうに渾名されていたはずだ。この状況から鑑みるに、彼もしくは彼ら二人が今、至近距離に潜んでいるということになる。全くもって面倒なことに巻き込まれたなあとディルは肩をすくめた。傍らの同僚はわかりやすく貧乏くじを引いたと言わんばかりに舌打ちしていた。訳のわからない連中とたった二人でやり合うのはごめんだった。この面倒ごとに、今ごろだらだらと酒でも飲んでいるであろう他の同僚たちをせめて巻き込んでやりたくて、 「俺は隊長に知らせてくる。おめえは逃げられねえようにせいぜいしっかり見張っとけよ」 俺たちのお楽しみに逃げらんねえようにな、と踵を返しかけたとき、ゼスは己の戦闘経験だけは豊かな勘が人の気配を察知したのを感じた。恐らく人数は二人、逆方向に向かっている。 「ちっ」 「まんまと出し抜かれたか」 悪態を吐いた口元をディルは歪める。過去の戦闘で何本か欠けた黄ばんだ前歯が露わになる。 「個人的な恨みは微塵もねえが、ちーっとばかし痛い目に遭ってもらうとすっか。特に『魔女』さんとやらの方」 「だな」 品のない軽口を叩きながら、ディルはテンプルソード、ゼスはロングボウを構える。ディルは村の東って何があったっけかなと、昼間に適当に頭に突っ込んだ村の地図を思い起こす。 「……墓場? 何考えてんだ、あいつら……?」 相方の思考を知ってか知らずか、眉根を寄せてゼスが呟く。墓場の裏手には滝があり、確かにそこからであれば逃げられないこともないかもしれないが、こんな寒い季節にそんなところに飛び込んでいくなんて、到底正気だとは思えない。所詮は素人考えだとは思うものの、つい今し方、その素人にまんまと出し抜かれたばかりである上に、妙な力を使う連中ということもあり、なかなかに油断ならない。 ゼスは獲物を見つけた猛禽類のような目で、標的に狙いをつける。逃げていく女と少年の足元へと数発の矢を放つ。 矢が掠ったのか、髪の長い人影が前へとつんのめったのが見えた。しかし、彼女は、足を引きずりながらも、そのまま逃げていく。 「追うか。所詮、切った張ったに不慣れな女子供だ。掠り傷とはいえ、どうせそう遠くまでは逃げられねえよ」 「ああ」 ディルの言葉にゼスは頷く。にやにやと笑いながら、 「綺麗だって噂の顔に傷つけねえでやったんだ、感謝してほしいところだな」 キズモノの相手すんのが嫌なだけだろと軽口に軽口で返しながら、ディルは走り始めた。リスルは太陽の沈みかけた墓地の片隅で、石ころ大くらいの大きさの紫色の実をいくつか摘み取ると腰を上げた。故人への不敬など、神を信じない彼女には関係のないことなので、たまに立ち寄るこの場所に、これが生育していることを知っていた。
イーシュは、リスルの足元に視線を落としながら、変声期の終わりかけたざらついた声で、ぼそりと言う。 「リスルさん、あの……足……」 気遣わしげな顔をする少年へと、彼女は肩をすくめ、わざと明るく言ってみせた。 「このくらいなら大丈夫。昔、火炙りにされたときに比べたら全然大したことないわ」 「……」 さらりと引き合いに出された過去の凄惨な体験に、イーシュの顔が痛ましげに歪む。リスルにしてみれば、ちょっとした軽口のつもりだったが、どうやら、根が真面目な少年には逆効果だったようだ。 さて、とリスルは咳払いをした。 「じきにさっきの奴らが追いついてくるはずよ。わたしは足止めのためにちょっとした小細工をするから、合図をしたらあなたは先に滝の方へ逃げなさい」 「でも……」 イーシュは何か言いかけたが、リスルの真剣な色を宿したグリーンの瞳に気圧されて押し黙る。 「イーシュ。約束、したでしょう?」 イーシュが渋々頷きかけたとき、柄の悪い男の声が響いた。先程追いかけてきていた僧兵の二人だった。 「いたぞ! ったく手間掛けさせやがって」 「……来たわね」 リスルは溜息混じりにつやつやとした牛革製のブラウンの手袋越しの掌に包まれたモノの感触を確かめた。イーシュは、一歩引いたところでいかにも荒くれ者といった風情の男たちとリスルをちらちらと見比べている。 「へえ……噂には聞いていたがなかなか……」 リスルの顔を見ると、右眉に白い古傷の残る男が舌舐めずりする。仮にも神に仕える者とは思えない下品さに、まだ年若い少年は嫌悪で顔を顰める。僧兵などと名乗ってはいるが、明らかに粗野な雰囲気といい、好色そうな嫌らしい目つきといい、どちらかと言えば傭兵や盗賊などのそれに近いような気がした。 「ふうん……教会の威信も随分と地に落ちたものね。さぞ、神も空の彼方でお嘆きのことでしょう……腐ってるわ」 目の前に相対する男たちに対し、イーシュと同じ感想を抱いていたリスルは、信じてもいない宗教的な象徴を都合よく引き合いに出し、彼らを睨め上げる。その視線は鋭く挑発的な色を帯びたものだった。 「へえ……『魔女』さんや、強気な女って言うのは悪くねえな。俺は、強気な女を屈服させる瞬間ってのが、堪らなく好きでなァッ!」 テンプルソードを持ったがっしりとした体つきの壮年の男が気迫と共に切りかかってくる。教会から支給された白銀のアーマープレートに身を包んでいるにも関わらず、力強く俊敏な動きだった。下衆な物言いとは裏腹に、切先の向かう先は的確だ。 「全く褒められてる気がしないわ、ね!」 リスルは、右手に握り込んでいたものを力を込めて潰すと男たちの顔面へと投げつけた。「イーシュ、逃げなさい!」「えっ、でも!」「いいから!早く!」黒っぽく、すえた匂いのする液体が飛び散る。男のテンプルソードがリスルの脇腹を掠りかけ、間一髪のところでからんからんと音を立てて地面へと転がった。遅れてどすんと男たちが白目を剥いて崩れ落ちる。リスルの視界の端には氷のように冷たい水に打たれながら、滝の裏側に逃げ込もうとしている華奢な少年の背中が像を結んでいた。 「うっ……このアマ、何を……」 倒れ伏す体格のいい方の男が口汚く呻く。 「即効性の麻痺毒よ。ご愁傷様」 全くそう思っていなさそうな涼しげな顔でリスルは男の問いに答えてやる。 「『魔女』なら『魔女』らしく妙な術使うとかしろよ……」 勝手な偏見をぶつけて意識を失った弓を携えた男にリスルは肩をすくめた。力を行使するとひどく疲れるので、なるべく必要最低限しか使わないようにしているというのにいい迷惑だ。 リスルは自分の服を見下ろすと、ベルトと外套のフードの紐を抜き取った。ベルトとドローコードを使って、意識のない男二人を手近にあった誰のものとも知れない墓石に括り付ける。これでしばらく彼らやその同僚たちが追ってくることはないだろうが、無事にレイモンに再会することがあればこっぴどく叱られる所業であることは疑いない。 リスルは踵を返し、イーシュを追って、背後の滝へと飛び込んだ。 静まり返った墓地の静けさの中に響く水の音と広がり始めた夜の闇に意識を失った男たちの姿は飲み込まれ、沈んでいった。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







